「わかりやすさ」にこだわる
【教育者は「わかりやすさ」にこだわるべき】
だと思うわけです。あっ、私自身、教育者のはしくれとして、自戒の念を込めて、以下書いています。
SNS時代って、教育者は「自分の言葉」でもって「わかりやすく」物事を伝えることが必須。そして、好むと好まざると、教育に携わる人(これは子供向けも、大人向けも)は、文章でもって「わかりやすく」伝える力が問われる。これって、教育者にとって、結構しんどい状況なのかもしれませんが・・・。
「わかりやすさ」を生むための魔法があればいいのですが、そんな正解はないかもしれないので、ひとつの仮説を。
「わかりやすさ」は「その人が専門用語を使わずに、難しいことを、心に染みいる、自分の言葉で語れるかどうか」
にかかっているような気がします。「そんなの、当たり前じゃん!」と思われるかもしれませんが、当たり前のことほど案外大変なもの。私自身、それを痛感しています。
ここでのポイントは、
・専門用語を使わない
・難しいことなんだけど、読み手が、スルッと理解できる
・心に染みいる(その人の実体験と深い気づきに根ざしているから)
・自分の言葉(即席の借り物の言葉でなく、自分の中にある言葉)を使う
とはいうものの、「文章で書く」という手段は案外不便なもので、文章で通して、伝えきることができるのは「わずか」。ときに、伝えたいことの1%も伝えることができないことも・・・。でも、だからこそ、心で涙し、脳みそに汗をかいて、文章でもって、自分の思いや考えを伝えきる必要があり、価値があるわけです。
そして、「わかりやすさ」をもたらす究極!があるとしたら、それは「何ひとつメソッドを教えない」ことなのかもしれません。「このメソッドがすごいよ、あっちのメソッドもすごいよ、私も学んですごかったから、あなたにも教えてあげる」というのは、もしかすると、何かが違う!ような気がしています。
そうではなくて、専門分野の理論やメソッドは教育者として学ぶのは当然のことであって、それを自分の中で消化し、そして自らのリアルな実体験への応用を通して、自らつかみとった独自の知恵。その独自の知恵を「物語る」ことが「わかりやすさ」をもたらす究極!なのかもしれません。
メソッドは手っ取り早く教えることができるのかもしれませんが、もしかすると、メソッドを下地にしながら、その教育者が、リアルな体験の中でもがき苦しみ、実地をとおして血肉化される。その過程でノートに綴った膨大なメモが一連のストーリーこそが、聞き手の胸の奥底に眠る未来を呼び覚ますのかもしれませんね。
自戒の念を込めて。