「愛」が見えるノート。
このタイトルをご覧になられて、
「???」
となった方が多いのではないで
しょうか。
少しばかり、深い話をします。
それは今から4年くらい前に耳にした
一言からはじまりました。
「世界を愛していないと、
わからないだろうな…」
そのとき、師はボソリとそう言いまし
た。まるでひとりごとのように。
でも、その言葉は、その瞬間、私の心
奥にとどまり、その後4年間にわたり
私は、この言葉の意味を考えさせられ
ることになったのです。
事あるごとに、
湖底から突如ととして頭を出すネッシー
のように、心のスクリーンに
「世界を愛していないと、わらかない
だろうな…」
という一言が点滅します。
つくづく。教育が人の一生の礎を築く
としたら、その教育において、教授法や、
テキストや、授業の中身といった、目に
見えるところより、1万倍大事なのが、
そこに教育者としてのスタンスがあるか
どうか。
そして、そのスタンスという木の根っこ
にあるのが、「世界を愛している」とい
うこと。この本当の意味、じつのところ、
私にはいまだよくわかっていません。
ボンヤリと輪郭が見えてきたくらい…。
でも、時間が経つにつれ、その「世界を
愛している」ということが、教育や知的
生産の現場(つまり21世紀に価値をもた
らすチカラ)においてはなくてはならな
いものとして、その輪郭が見えてきました。
「最後に愛が勝つ」という曲があった。
「最後に愛が残る」という教育もある。
わけです。
「最後に愛が残る」という教育。それは、
いま、そしてこれから、いや吉田松陰先
生の時代からも、その根底にあり、言葉
やプレゼン資料では手渡すことができな
い「かけがえないのないもの」として輝
いていたのかと思います。
先日、ある私立高校へ通う女子高1年生の
「ノート」を見ていて、そこに愛がある
ノートと、ただ文字面だけがつまらなそ
うに羅列されているノートの2種類がある
ことを目の当たりにしました。
同じひとりの人間がとるノート。でも、
ノートはあきらかにちがう表情をしている。
なぜか?それは、教える先生の根底にあ
る「世界を愛している」スタンスにより、
その授業を受ける生徒のノートは変わり、
その1冊のノートに残る「愛」のカタチ
とミライは変わっていくのだと。
つくづく、思ったしだいです。
「世界を愛していますか?」
理屈ではなく腹から「YES!」といえる
ようになるには、私の場合、まだまだ
歳月が要するかと思いますが、一歩一歩、
「世界を愛している」スタンスからの
思考と行動を、ノートの上で磨いていき
たいと思っています。